お互い様                           2002.
1.自分の言いたいことを言うのは、相手の言いたいことを聞くこと。
2.自己主張するのは、相手の主張もまた尊重できるということ。
3.相手から独立するということは、相手もまた自分から独立することを理解できるということ。
4.親から自由になるのは、親もまた自由であることをわかること。
5.妻から独立するのは、妻もまた独立するということ。
         こんな人に                           2003.8.
 どんな人になりたい?と聞かれたら、今は、本物のお人好しになりたいと答える。
 どんな人が好きですかと聞かれたら、本物のお人好しと答えたい。
 なぜかと言えば、自分がお人好しでもなければ、そうでないということもない、中途半端なところにひっかかっているから。
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 コラムというより日記に近いつぶやきのページです。たいした内容はありませんがホームページのお約束のようですので・・・。なお、ショート・ショートもここに入れさせて頂きました。
 本音を語りたいです。が、人は本音を語れるのでしょうか。あるいは、本音でないと主張した言葉も含めて、口から出た言葉は同じような力を持つのでしょうか。とまれ、ここでは、大いに迷い、悩むことにしましょう。
         食卓                              2003.8.31.
 幼い頃の食卓風景をかすかに覚えている。一人だったことはほとんどない。家族と一緒に食べる。多分、最初の小さな「社会」。今と比べれば、格段に貧しい食卓だったろう。卵は贅沢品。バナナはめったの口にすることはなく、あれば、1本を分けて食べる。食べ物は、分かち合うものだった。
 「食べる」ということは、すべて食卓の思い出に通じる。ふつう、自由な小遣いなどなかった。自分で買い食いなどは考えられない。口に入るものは、親の手を通してであった。それが、貧しい時代だったからなのか、親の考えだったのか、一般的な常識だったからかはわからない。しかし、そうだった。 
 今、子どもたちは、当時よりは、自由に食べ物を手にする。食卓で家族がそろわないこともしばしばあると聞く。口で教えられるのではない原風景の中に、食卓はどのように映っているのだろう。
 何人かで食事をする。お菓子を食べる。そのとき、数が少ないものがあれば、自然に人に譲る。「どうぞ、どうぞ。」儀礼ではない。ふと、幼い日の食卓風景を思い出す。母親がそうだった。「いいからお前が食べなさい。」それは、箸の持ち方と同じ体に残った記憶。
 今、子どもたちの原風景の中に、食卓はどのように残っていくのだろう。
 
         眠り                             2003.9.1.
 始業式を控えて、めずらしく12時過ぎに床につく。順調に眠った(らしい)目が覚める。明け方かと6時にセットしておいた時計を見る。まだ、2時半過ぎ、やむなく羊を追いかけていたら、いつの間にか4時になろうとしている。何をやっているんだろうと思い。ここをのぞく。
 かすかに夢を覚えていた。乗り物でどこかにいく。どこだかわからない。行く先もわからないし、このごろは、他に誰も乗客がいないことが多い。ただ、乗り物に乗っていて、どこかを通っていて、目が覚める。せめて懐かしい同伴者か、友だちがいれば夢もまたよしなのだが。ははあ、今の人生の歩みに似ているなあとふと思う。「阿弥陀堂だより」のような景色がない。人もいない。建物もない。これでは「夢に胡蝶となる」こともない。おとなしく、あと2時間、羊の毛でも数えていよう。
         ニュースで                          2003.9.1.
 高層ビルのベランダから子どもが落ちてなくなったとテレビが報じていた。ニュースは続ける。
その4時間後、母親もまた同じベランダから落ちて亡くなったと。かあーっと胸が熱くなる。
ニュースは、母ひとり子ひとりの家庭だったこと。子どもの病院でひどく取り乱していたことを報じている。ベランダに立った母親の思いはどんなだっただろう。変わってやることの出来ようもない悲しみ。ベランダから、子どもを抱き留めるために飛び立った母の心。どうしようもない辛さ。
          夢の解釈                          2003.9.6.
 前の晩が遅かった。寝たのは明け方の4時半。その前の1週は、平均4時間睡眠が続いていたから、土曜日のこの日はよく眠れるはずだった。ところが6時半に目が覚めた。仕事のあるいつもの起床時間に近い。意識はぼんやりだったが時計は分かった。あわてて?もう一度目をつぶり次に目を開けたのが9時半。まだ眠い。再び目をつぶると、次に目を開けたときは、12時になっていた。新聞を取ってきて開いた。新聞を開いたが目はまた閉じた。結局しっかりと目の覚めたのは夕方だった。
 体も心も疲れていた。だから眠りが長くなった。長いが中途半端な眠りだった。眠りがあまり深くなかったのだろう。起きる間際の夢を覚えていた。どこかの家にいた。引っ越してきたばかりなのだ。夢に説明はない。親戚筋の人が何か聞いた。ああそこにある、と本棚をさす。本の並びが変わっている。あわてて探す。探すが、目的の本はあるのに見つからない。親戚筋は昔の同級生に変わっている。なおも探す。同級生もいなくなっている。それでも本を探す。場所がいつのまにか風呂の中。どこかの女性が入ってくる。が、色気は関係ない。女性と知っているだけで、顔も体も出てこない。ぷいと立ち寄った近所の人らしい。○○さんも来ていますよと言い、今度は座敷の中。初老のおじさんがそこにいる。やあ、ようこそと席をすすめる。テーブルにお菓子を出す。鮮やかなお菓子。出したのは先ほどの女性らしい。この辺はどんなところですかと私が聞く。何もないところですよ。また別のお菓子が出ている。女性はもういない。この近くに面白い景色のところがありますよと私が言う。話の主客が入れ替わっている。夢ではよくあること。私はそろそろと初老の人が立ち上がる。再びお菓子。ここがその(おもしろい)景色のところですよ、というと車からその場所が見えてくる。じゃあ失礼しますとお客の初老の男が言い、私は部屋にもどっている。どれと、外に出てみる。と、そこは、小さな商店街。しかも、洞穴のようなところに店が並んでいる。歩いていくとすぐ突き当たる。締まっている店がほとんど。何の店か分からない。もどろうとすると再び部屋の中。そして、そこには、また別のお菓子が盛ってある・・・・・・・・
 ここで目が覚めた。何の脈絡もなく続いた夢のことをすぐ思い出した。はて、なんでこんな夢を見たのだろうと思った。夢に説明はない。脳の中の情報整理。そして、すぐにこの夢の主題?が分かった。夢の中で何回も気になったお菓子。朝から何も食べていないのだ、私は。空腹だった。何かないかと冷蔵庫を開けると、ナンがあった。
坊ちゃんの時代                        2003.9.7.
 「父の暦」の余勢を駆って「坊ちゃんの時代」5冊を読み直しました。
明治という時代を舞台にした珍しいマンガ(コミック)です。登場人物や名前の出てくる人物を紹介していくだけで内容の紹介に通じるとおもわれます。なお本の扉や表紙には関川夏央さんと谷口ジローさんの二人の名前が並べて掲げられています。 (双葉者刊アクションコミックス)
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第1巻「坊ちゃん」の時代 
    夏目漱石38歳と鏡子夫人 黒猫  堀紫郎・侠客30歳 荒畑寒村19歳 
    森田草平 21歳 太田仲三郎 18歳  国木田独歩34歳 石川啄木19歳 
    坊ちゃん  伊集院影韶警視 ラフカディオ・ハーンと小泉節子 森鴎外43歳  
    樋口一葉 平塚明子(らいてう) 徳富蘆花37歳 山県有朋63歳 桂太郎 
    伊藤左千夫41歳 若い東条英機 安重根(のちの伊藤博文暗殺犯) 
    魚住淳吉 鈴木三重吉 柳田国男30歳 島崎藤村34歳 田山花袋34歳 
    正岡子規 高浜虚子 大杉栄 堺利彦 
第2巻「秋の舞姫」−「坊ちゃん」の時代第2部
    夏目漱石42歳 二葉亭四迷 石川啄木24歳 森鴎外47歳 島村抱月38歳 
    田山花袋 徳富蘇峰 内田魯庵  坪内逍遙50歳 福田英子 半井桃水 
    正宗白鳥 徳富蘆花 泉鏡花 堀紫郎 富田銀造(仕立屋銀次) 
    嘉納冶五郎 東条英機(子ども時代) エリス・バイゲルト(舞姫) 西郷四郎 
    樋口夏子(一葉) 長谷川伸  ビゴー 尾崎紅葉19歳 大山巌 桂太郎 
    川上操六 野津道貫 乃木希典 井上哲治郎 エドムンド・ナウマン
    広瀬武夫 山本権兵衛 清水次郎長 
第3巻【啄木日録】「かの蒼空に」−「坊ちゃん」の時代第3部
    石川啄木23歳 仕立屋銀次 吉井勇23歳 夏目漱石 太田仲三郎 堀紫郎 
    荒畑寒村 森田草平 幸徳秋水  管野須賀子 伊集院影韶 金田一京助 
    北原白秋 土井晩翠夫人八枝 平塚明子(らいてう) 木下杢太郎 石井拍亭 
    山本鼎 堺利彦 山川均 大杉栄 村木源次郎 石川三四郎 大須賀里子 
    神川松子 小暮れい子 西郷四郎 森鴎外 森茉莉 内山愚童 坂本清馬 
    森近運平 原敬 石田吉蔵(阿部定事件の) 芥川龍之介?内田魯庵 
    坪内逍遙 池辺三山 
第4巻「明治流星雨」−「坊ちゃん」の時代第4部
    幸徳秋水 田岡嶺雲 石川啄木 管野須賀子 伊集院影韶 板垣退助 林有造 
    山県有朋 中江兆民 内村鑑三 桂太郎 田中正造 黒岩涙香 森鴎外 
    荒畑寒村 北一輝 中里介山 竹久夢二 賀古鶴所 堺枯川 二葉亭四迷  
    内田魯庵 石川三四郎 山川均 大石誠之助 南方熊楠 竹内鉄五郎 藤田五郎
    夏目漱石  坪内逍遙 原敬 平沼騏一郎 乃木希典 大杉栄 永井荷風 
    宮下太吉  新村忠雄 小泉三申 
第5巻「不機嫌亭漱石」−「坊ちゃん」の時代第5部
    夏目漱石と鏡子夫人 黒猫 松根東洋城 石川啄木 国木田独歩 徳富蘆花 
    正岡子規 平塚明子(らいてう ラフカディオ・ハーン エリス・バイゲルト 森田草平
    樋口一葉 森鴎外 幸徳秋水 二葉亭四迷 高浜虚子  乃木希典 クレイグ 
    長谷川伸 管野須賀子 大石誠之助 伊集院影韶 山県有朋 坊っちゃん 
    大塚楠緒子 大塚保治 阿部能成 小宮豊隆 鈴木三重吉 池辺三山  
    森田草平 幸徳秋水 新村忠雄 宮下太吉 堺枯川 荒畑寒村 大杉栄 
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 目についた登場人物を並べただけでこの数になりました。このうちの半数以上を知っている方はそうとうの明治通です。歴史好きを自認する私も、知らない名前が三分の一はありました。関川夏央さんが、5巻目の後書きで書かれています。「漱石の『坊っちゃん』という小説の成立過程を縦糸に、明治末年の日本とその思想状況を描きたいと考えた・・・・・ひと口にいって近代史の転換点そのものを主題とした・・・・・明治39年から43年をことさらにときの舞台として選んだのは、その日露戦争後の数年間こそ近代日本の転換点と見通したから・・・これ以後日本は1945年へと続く鉄路の上をはなやかにまた重々しく進み始める・・・」
 この作品について、関川さんは「谷口ジローと関川夏央の共著であり、どちらが主どちらが従ということはない」と書かれています。企画・脚本が関川さん、構成・作画が谷口さん。映画でいうならシナリオ関川さん、撮影・監督・キャスティング谷口さんとも。1985年から12年がかりの大作で、今回読み直してみて、あらためて密度の濃い作品だと思いました。  (関連

     夢再び               2003.9.27.
 年を重ねるに従って、夢の役割が変わってきているように思える。夢の中で、懐かしい人にあったり、(どこだか分からなかったりもするが)懐かしい場所に居たりする。メドレーのように、懐かしい(らしい)場面がつながっていったりする。
 必ずしも「懐かしい人」が亡くなってしまったわけではない。それぞれの事情や、現実の忙しさの中で、めったに会うこともなくなった。実際に関わる人は、仕事がらみやおつきあいが多い。青年期のような無心なおつきあいの場面が実際には少なくなってしまった。
 夢は違う。懐かしさの中にどっぷりとつかり、”自分の中にいる”かつての友と出会い、”自分の中にある”道や家々、町や風景の中を異次元にいるように自由に行ったり来たりする。
 だから、年を重ねるに連れ、まどろむ時間が大切なものとなる。まどろみの中で、”自分の時間”を生きることができる。覚醒が虚構になり、まどろみが真実になる。その転換点がいつかはわからない。しかし、年を経るに従って、夢がますます美しく愉しみなものに変わっていく。現実感覚を失っていく危うさと隣り合わせだが。
 最近ふとそんなことを思ったのである。 
   糖病記                       2003.10.11.朝 
 糖尿病と言われ、今病院にいる。長い入院というのは初めての経験で、考えてしまうことがいろいろと出てくる。
 一番深く印象づけられるのが、院内での人間模様だ。耳に入ってくる会話がまず心に残る。初めて会った同士が、誰からともなく話し始める。話題のほとんどが病気のこと。たまに、外を見て天候の話が出る。家庭や仕事の話になるのは、ある程度なじみになったから、それも、希である。
 病気の話は、世間話のように淡々とはなされる。病院の外だったら目をむくような話ばかりだ。
「鎖骨に穴をあけて点滴をしているから、両手が空いていて楽だよ。」
「あの人も大変だね。今度は胸のガンの手術だよ。糖尿も見つかったそうだし。」
「インシュリンを(おなかに)うっていたら皮膚が硬くなっちゃって。場所を足に変え
たら、今度はそこが目立っちゃってさあ。ミニスカートはけないじゃない。」
と若い娘。そのあと小さい声で、
「(糖尿病と)一生つき合って行かなくちゃならないのよね。痛くなかったら死んで
しまいたいよ。」
「退院は快気祝いじゃないんだ。これからこの病気とつき合っていく出発なんだよ
な。」
そうした会話を、こちらもふつうの顔で聞いている。時には相づちをうって。
 会話だけではない。寂しそうに、いつも人の集まっている場所にきて、黙って車椅子を止めている人。誰彼となく話しかける人。伏し目がちに空中を見つめている人。寝台に寝て動けないまま、看護師に付き添われて喫煙室まで出かける人。ペットを抱いたまま病院に入って来た人に目をむいて怒る人。小さな赤ちゃんを連れた若夫婦を見て、病院につれて来ちゃいけないじゃないかと心配する人。(実は、産科から退院する人だった。)ひげをきちんとそり、いつも身ぎれいにしている人もいれば、ふてくされたようにひげをそらない人もいる。髪に櫛を通すことをやめた人、病院一の金髪だと自慢そうに頭をなでる若い男。経営しているラーメン店の心配をする人。絶望でも希望でもない様々な人間模様。いつの間にか自分の視線も病院の中の人になってしまっている。そして、ふと考え出す。私はここに来て、もっと生きたくなっただろうか。それとも本当は、どちらでもいいのだろうかと。
 いやいやそんな風景ばかりではなかった。病院の中にあるささやかな連帯感と優しさは、車椅子のまわりにあらわれた。エレベーターでも廊下でも、みんな車椅子に道を譲る。「手伝いましょう。」と、体の動く患者は、そっと手を伸ばして車椅子を押しはじめていた。

ショート・ショート  インフォームド・コンセント        2003.10.9.病室で

 「どうぞお座りください。」
いすを引きながら若い男が言った。相手は男の子の手を引いた母親。ちょっと不満そうな顔を横に向けて、子供の顔を見た。
「うちの子の分の椅子はありませんの?」
あわてて若い男が横から折りたたみ椅子を持ってくると、汗をかきながら弁解した。
「失礼しました。」
 呼吸を整えた若い男が口を開いた。
「ご存じのように、先頃成立した『わかって合点法』で、すべての業種にインフォームド・コンセントが、義務づけられました。」
若い男が説明している間も、男の子があたりを走り回っていた。
「さて、お宅のお坊ちゃんですが・・・。」
 その前年『わかって合点法』が国会で成立した。「病院から美容院まで」をスローガンに、お客を相手にするすべての業種に適用された。レストランでは、注文の時にシェフから、それぞれの一品ついて、材料から調理法、カロリーまで、懇切丁寧な説明があり、それを聞いてからようやく注文ができた。露天のバナナのたたき売りは、口上の中に必ずバナナの産地や品質、値段の根拠についての説明を入れた。大変なのは交通機関だった。はじめは、出札口で駅員が一人一人に説明をしていた。その間に電車が発車してしまうこともしばしばだったが、このごろようやく自動解説の機械が導入され、説明に同意した人が出札機に進むことができるようになった。
 実は、国内の『わかって合点法』は、国連総会で提唱され議決された同趣旨の取り決めに準じたものだった。国際版の『わかって合点法』は地球規模の安寧を願って作られた格調の高い条文を含んでいた。例えば、アマゾンのジャングルの開発を行う場合、開発業者は、目先の利益だけでなく、樹木を伐採したあとのジャングルへの影響と将来の緑の復元への道筋までも説明しなくてはいけないし、地元のインディオの同意をしっかりとらなければならなかった。遠洋漁業でマグロを追いかける船は、資源の枯渇に対する説明と魚の数が減らないための道筋を説明の中に入れなければならなかった。さらに大変な思いをしたのが、各国の首脳たちだった。何しろ戦争さえもこの条文は適用されたのだ。世界一の軍備を誇るA国は、西アジアの某I国を爆撃をするためには、我が国がなぜ貴国を標的にして戦闘行為を始めるかの根拠をデータと一緒に示し、相手国の同意を得るという手順が欠かせなくなった。秘密裡にミサイル等を開発している国も「秘密で開発しているよ。」と説明をし、利害国の「秘密のまま進めていいよ。」という承諾をとる必要があった。かくして、地上から戦闘行為の数が減っていったのは確かだった。
 話を冒頭の話題に戻そう。
「さて、お宅のお坊ちゃんですが・・・。」
若い男は少しためらった。走り回っている男の子の姿がどうしても目に入ってしまう。が、母親の前である。うっかり叱ったり押さえたりしたら、今度はその行為についてのインフォームド・コンセントが必要になる。知らないふりをしていることにする。
「十分調べられたと思いますが、本校は@穏やかな子A周りに迷惑をかけない子」「ルールをしっかり守る子」というのを学校の基本方針といたしております。お宅のお子さまがその三つの目標を遵守できると思われますか。」
「当然じゃない。見ていればわかるでしょう。うちのはねたろうちゃんほど厳しく育てられた子はめったにいないわよ。」
「まことに申し上げにくいんですが・・本校にはお宅の坊ちゃんは向いていないと思うのですが・・・」
「なにを言ってるの。どこがあわないって言うの?」
学校というところは複雑だった。教師が学校について説明をして同意を求め、親もまた我が子について説明をして学校に同意を求める。「わかって合点法」が双方向に働いた。母親がしぶしぶとでていった、次の学校の入学式に向かうためだ。
 そう、今日は「わかって合点法」に基づいた初めての入学式であった。ノックの音がした。親の手を引き、次の女の子がきょろきょろしながら入ってきた。
「やれやれ、今日の入学式は夜中までかかりそうだな。」
若い男、その学校の教師は汗を拭いた。
 かくして今日も、「わかって合点法」に示されたインフォームド・コンセントの精神に守られて、平和に世の中は動いていく。

                                            終わり
     ******** 雑文 ********

 1.お互い様       14.弟子に説法
 2.こんな人に      15.関係はシーソー 
 3.食卓              
 4.眠り
 5.ニュースで
 6.夢の解釈      
 7.坊ちゃんの時代
 8.夢再び
 9.糖病記
10.糖病記2
11.糖病記3
12.糖病記4
13.どちらが本当か
   ****** 創作 ******

1.インフォームド・コンセント ショート・ショート
2.今日もまた何事もなく    ショート・ショート
3.池とお月様          童 話
  ショート・ショート     今日もまた何事もなく     2003.10.10. 病室で

 入院生活にすっかり慣れてしまった。はじめはあんなに家に戻りたかったのが嘘のような気がする。家に戻りたかったのは、拘束されている状態がいやだったからだ。自分以外のものに支配されているのは、人間の尊厳を冒されているのと同じだ。だから、入院状態が耐え難い、はじめはそう思っていた。
 いつの間にかすっかりなじんでしまった。なじんだというより順応しきったといって良い。はじめの頃はたびたびつけていたテレビも、めったにつけなくなった。保養地で静養しているような快適ささえ感じた。
 さて、この日は珍しく、何となくテレビをつけてみた。
「本日も株価は下落し・・・日本経済はもはや回復不能のダメージを・・」
つまらないので、テレビを消すと、病院の売店に行ってみる。昨日と値札がつけ変わっている。特に買うものもないので、部屋に戻ると、隣のベッドのテレビがつけっぱなしになっている。
「酸性雨の猛威が東京の自然を蝕んで・・。」ぼんやりとそこを通り過ぎる。そういえば雨が降っていた。ベッドの脇の窓から大きな木が見えた。木の上の方の枝で、カラスが騒いでいた。枝の先が茶色い。けたたましく聞こえる鳴き声は何だろう。
「臨時ニュースを・・・。」
また隣のテレビの音が耳にはいる。
「・・本日A国と戦闘状態に入り・・・・」
ばかばかしい。また、戦争だ。人間は、なんと愚かしい生き物だろう。
「わが国に向けて、核ミサイルが発射されました。迎撃ミサイルは・・・」
これ以上無意味な音が入って来ないように、急いでMDのヘッドホンをつけた。心地よい音楽が流れる。こうしていると極楽だ。いつまで、入院は続くのだろう。そういえば、今日は、いつもの時間になっても、看護師のすがたがみえない。どうしたんだろう。廊下を行き交う様子がない。食事も遅れている。何をしているんだ。腹が空いて、腹が立つ。苦情を言ってやろう。


肩越しに見えていた隣のベッドのテレビがいきなり真っ白になり、窓の外があかるくなった・・・・
        
                                           永遠に 未完
   童話      池とお月様                           1972.10.14.   
 だあれも知らない森の中に、小さなお池がひとつありました。秋です。お池のそばでは、たくさんのすすきが頭をさげています。すすきの頭はまっしろけ。もう、すっかりおじいさんになっていました。そのうしろでは、かきの木が、赤い大きなみをぶらさげたまま、まっさおな空をながめていました。えだの先からはっぱがおちて、お池のまるい顔の上に、きれいなもようを作りました。
 お池はかんがえごとをしていました。
「もう秋なのか。もうすぐ、山や森の木はまっかになるなあ。そうしたら、すぐにはっぱをおとしてはだかになってしまう。なんだかさびしいなあ。」
お池はためいきをつきました。
 すると、顔のあたりがすこしむずむずします。見ると、お池の上を、赤とんぼのむれがとんでいます。赤とんぼは、ときどきしっぽの先をお池の顔につんつんとつけていきます。
「くすぐったいなあ。でも今に、とんぼの子どもがぼくの中で大きくなって、にぎやかになるだろうな。」
そう思って、お池は、とんぼのすることをだまって見ていました。

 ある夜のことです。こおろぎのころころと鳴く声で、お池はふと目をさましました。かきの木の枝の間から、大きなお月さまがのぞいていました。なんだか、かきの木にとまって休んでいるようでした。ちょうどまん月。あたりがすこし明るくなっていました。白く光ったお月さまがあんまりきれいなもので、森中が見とれています。すすきのおじいさんまで、しらが頭をもちあげて、お月さまを見ようとしています。
お月さまのまあるい顔は、お池のまるの、ちょうどまん中にうつりました。
「なんてうつくしいお月さまだろう。」
お池はびっくりしてしまいました。みなさんのよく知っているあのうさぎのもようが、お池には、にっこりわらっている目や口のように見えたのです。お池は、お月さまが気になってしまいました。
「友だちになりたいなあ。」
そこで、お池は、森のいろんなできごとをお月さまに話してあげました。からすがかきのみをつっついて、すすきおじいさんの上におとしたこと。くりのいががりすのしっぽの上にめいちゅうしたこと。青い空に白い雲が絵をかいたこと。お池は、じぶんの知っていることをつぎからつぎへと話していきました。
 お池がどうしてそんなにもの知りなんだろうと思ったかたはいますか。じつは、お池の話したことは、みんなお池にうつったことばかりだったのです。お池の知っていることといえば、水にうつったことよりほかになかったのです。
 何時間も、お池はお月さまに話しかけました。でも、お月さまは知らん顔。あたりまえですよね。お池は、水にうつったお月さまに話していたのですから。お池はへんじがないのがかなしかったのですが、きっと、いつかはお月さまも話しかけしてくれるだろうと思いました。わらわないでくださいね、お池のことを。お池はいっしょうけんめいなのですから。
 こうして、なん日かがすぎました。いつものように、お月さまにお話をしようとして、お池はたいへんなことに気がつきました。ふとみると、おや、たいへん。お月さまは、きのうよりやせていたのです。どうしたんだろうとお池はしんぱいになりました。そういえば、ゆうべお月さまは、雲のマスクをしていました。もしかしたら、かぜかもしれません。
「お月さま、お月さま。きぶんがわるいのではありませんか。お顔の色がよくないですよ。なんだかやせてきたみたいですよ。」
お月さまのへんじはありませんでした。
 つぎのばんになると、お月さまは、またすこしやせてほそくなってしまいました。
「だいじょうぶですか。お空にでるのをやめて、すこし休んだらいかがですか。からだをこわしてしまいますよ。」
お池はしんぱいでたまりません。なんどもなんどもちゅういしました。
 こんなにお池がお月さまのことを思っているのに、日がたつにつれて、お月さまはますますやせていきました。そして、とうとうすがたを見せなくなりました。空では星が、るすばんをしているようにきらきら光っているばかりでした。
「ああ、どうしたんだろう。びょうきがおもくなってねこんでしまったのかしら。」
お池は、ブルっとみをふるわせました。水面がなみだちました。そのときです。そばの草のしげみから、1匹のかえるがとび出してきました。
「ケロケロケロ、ケケロ、ケケケ」
かえるは大声でわらいました。
「おまえさんは、なんにも知らないんだね。おれさまが教えてやるよ。いいかい、お月さまというものはね。ひとりでに、やせたりふとったりするものなのさ。」
かえるはそういうと、ボチャンと水の中にとびこんでおよぎはじめました。
「へえ、そう。へんなの。ぼくの顔はいつでもまるいまんまなのに。」
お池はふしぎな気がしました。
 なるほどかえるのいったとおり、なん日もたつと、お月さまは、だんだんにもとのすがたにもどってくるのでした。

 つぎの日、お池はきゅうにじぶんのことをかんかえました。
「そういえば、ぽくの顔は、だいぶよごれているなあ。水のそこのほうなんか、まっくろけだ。これでは、こんどお月さまにあったときはずかしいや。」
えだからおちたはっぱや、草のはっぱで、お池はすこしにごっていました。
 その日のごごは、どしゃぶりの雨でした。ものすごいざあざあぶり。木も草も、もちろんお池も、雨にうたれてすっかり小さくなっていました。けれど、夕方には、雨はぴたりとやんで、きれいな裕け。空はすぐにはれあがって、星がかがやきはじめました。しばらくすると、お池の顔はすっかりきれいになっていました。はっぱもごみもどこかへ行ってしまいました。お池はどうやってそうじをしたのでしょう。ふしぎですね。

 あるばんのことです。ひんやりとした秋の風が、木のはといっしょにお池の上をわたっていきました。きゅうにゆらゆらと水がゆれたかと思うと、お月さまの顔がゆがんでしまいました。お池はぎょっとしました。が、すぐにまた、もとのお月さまにもどってきます。やれやれ。と、そのときです。とつぜん、どこからか石つぶてがとんできました。水の上のお月さまに、みごとにめいちゅうしたのです。たちまちお月さまの顔は、こなごなにくだけてしまいました。お月さまのいたところに小さなわができました。そして、まわりへとひろがっていきました。
 お池はとびあがるほどびっくりしました。きっとだれかが、お池の中のお月さまに石をなげたのでしょう。でも、お池にはそれがわかりませんでした。
「お月さま、お月さま、ぼくのことがきらいになったのですか。ぼくの上にくるのがいやになったのですか。」
お池は、じぶんがきらわれたと思いこんでしまったのです。
「どうか、ぼくの上におりてきてください。かくれないでください。おねがいです。」
 まもなく、池の水は、もとのようにしずかになりました。そして、お月さまは、なにごともなかったようにうつっているのでした。

 こんやもどこかで、お池は、お月さまにお話をしていることでしょう。それとも、冬になったらすぐこおりをはれるように、とうみんのじゅんびをしているのかもしれません。みなさんも、こんどお月さまにあったら、いろいろお話をしてごらん。そして、お池がどうしているかたずねてごらん。

                                               終わり

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 病院でギヤグっぽい文章を書いていて、もうすこししっとりしたものがかけないかなと思ったとき、昔のこの童話を思い出しました。なつかしくなって引っ張り出してきました。この童話は、2年生の担任をしていたときに、学級通信にのせたものです。そして、子どもたちと一緒に童話作りをして1冊の文集にまとめました。でも、実はこの童話の原型は、高校生のときに作った詩でした。それを子どもむけに書き改めたのです。あれから31年。早いものです。
          糖病記2 

2003.10.13.
 ○小耳にはさんだ談話室の会話から。
  1.「30年入院している人がいる。」(!)
    「もう帰るところもないだろうな。」
  2.「あんた、1年も入院していたら、こっちの方がもう先生だよ。」
    「薬をいつどのくらい打つかなんて、自分の方がわかっている。」
  3.「もう10年も立てば、私みたいになる。手も足もしびれて痛む。神経障害なんだよね。」

2003.10.14.

1.重病の人が多い病院のこと。先週よく話をした人の姿が、今週になって見られな い。それだけのことだが、気になってならない。退院できたのならよいが。

2.一つおいた隣の部屋から、しょっちゅううめくような叫びが聞こえてくる。昼も、そして時に
  夜中も・・・・どんな病気かはわからない。あんなに声を振り絞るどんな苦しみを抱えているの
  だろう。自分のことよりも、他人のことが妙に気にかかる。

2003.10.15.

1.人間の視床下部には、「満腹中枢」と「摂食中枢」とがある。血糖値をはかりながら、ふと疑問を持つ。確か「満腹中枢」は、血液の中のブドウ糖をたえず計っていて、低下すると、胃に「おなかがいっぱいだよ。」という信号を出す。「摂食中枢」は、血液中の脂肪酸か何かを見ていて、不足すると「腹が減ったぞ。」という信号を胃に送る。腹が減るわけだ。疑問その1。「満腹中枢」はどうして高血糖を関知して胃に「腹がいっぱいだ」と信号を送らないのだろう。そうすれば、血糖が高い間は、空腹感におそわれなくていいのに。疑問その2。「満腹中枢」と「摂食中枢」はどうして違うデータを集めるのだろう。二つの中枢の結論が矛盾する場合もあるだろう。そのとき胃にはどんな指令が送られるのだろう。こんなことが気になり出すと、なかなか眠れない。

2.病院の診療開始は8時30分である。しかし、ドアは7時前にはもう空いている。そして、7時頃には、診察を待つ外来の人たちがかなりすわって待っている。よく見ると、お年寄りの方が圧倒的に多い。みんな黙って空を見つめている。新聞を読むでもない。周りを見るでもない。ただ座っている。お年寄りに病気を持つ方が多いのはわかる。が、それにしてもこんなに早くから病院に来て黙って座っている。ふと、心の中を覗いているような気がしてくる。この方たちは、朝、家庭でどんな風に過ごしているのか。家族の一員として先輩として、どんな思いで。と必ずしも満ち足りた表情には見えないのである。

3.考えてみると、「糖病記」といいながら、あまり自分のことを書いていない。自分のことなどつまらないのである。書けばこうなる。

・ 6:00  起床 体温測定 血圧測定 体重測定。
・ 7:00  血糖値測定 指に針を刺し米粒大の出血を専用のセンサーで測定。記録。
・ 7:30  インシュリンを自分で腹に注射。
・ 8:00  朝食。塩分7(一日)グラム。コレステ。1500カロリー(一日)
・11:00  血糖値測定 指に針を刺し米粒大の出血を専用のセンサーで測定。記録。
・11:30  インシュリンを自分で腹に注射。血圧測定。
・12:00   昼食。食べた後空腹を感じる量。 
・17:00  血糖値測定 指に針を刺し米粒大の出血を専用のセンサーで測定。記録。 
・17:30  インシュリンを自分で腹に注射。  
・18:00  夕食。血圧測定。
・20:00  血糖値測定 指に針を刺し米粒大の出血を専用のセンサーで測定。記録。
・20:30  インシュリンを自分で腹に注射。
・21:00  消灯。
・22:00  最終就寝時刻。  
・一日の排尿回数、排便回数記録。(たいていの人が便秘がち)
・運動療法がある場合は、万歩計を持って一日一万歩。

  以上が、毎日の決まり切ったメニューである。この基本の上に、毎日様々な検査、回診、講義、栄養指導などがつく。書いていて、味も素っ気もない。

4.そうそう訪問者の記録も。
 10/11(土) S野君(山梨から)、A達君
 10/13(月) ネット仲間のArsさん、関取さん、千恵ちゃん(甲府から)、
          まぢゃさん
 10/15(水) 教頭(翌日締め切りの書類を持って)出張の帰りに
 10/16(木) 教頭(書類の回収に)出張の帰りに
 10/16(木) 校長 出張の帰りに
 10/17(金) T山君(甲府から出張の帰りに)

5.病院にいて、車椅子の人の多いのに驚く。年齢は様々だが、やはりお年寄りは多い。口を開けたまま車椅子に座って固まってしまったように表情を変えないお年寄り。病院のから、赤ちゃんを抱えて、危機とした表情で出てくる若い母親。一場に人生の始まりと終わりの断面がある。

6.自分の腹にインシュリンをうつことになれそうもない。針の先を腹にむけるときに、注射器の中の空気を抜いたときの薬液のしずくがきらりと光る。一瞬のためらいがある。
  小さな針でさえこうだ。昔の切腹の人はどんな気持ちだっただろうと、妙な連想をしてしまう。きっとためらい傷があっただろうと思う。それでやめるのがふつうだ。それ以上進むのは、一種の狂気なのだろう。
 どうも話があっちこっちにいく。病人としては不真面目そのものだ。自分の心がどっちにふらふらしているかがよくあらわれていて危機感が無い。

7.2003.10.16.
  ○再び小耳にはさんだ談話室の会話から。
   「コンビナートというのは、一社では建設できないんだよ。」(北海道の地震後の某社のナフサのタンクの火災から発展して。)「あれは、技術以下だ情けない。ただ、アメリカのものを持ってきたってうまくいくわけがない。若い技術者がいても、意見を言わせてもらえないで、嫌気がしてやめていく。」
   「某公団の総裁、あれはひどいやつだね。恥ずかしくないのかね。おぎょうぎわがわるい。」
   この手の社会問題の会話は、たいてい、もう退職して時間のたった年配者。たいていの若い人は、適当に相づちをうつが、意見は言わない。年配者の独演会になる。もっとも、同じ病気の話を何回も繰り返しているのも年配者に多い。

8.医師も看護師も比較的若い人が多い。(こっちが年をとったということかな?)言葉もていねいで、笑顔が絶えない。こまかいことによく気をつけている。各人の検査予定や癖をよく覚えていて、本人が忘れているようなことがあると、看護師がすっ飛んできて教えてくれる。看護師は、今のところ女性しか見ていないが、老人を風呂に入れるなどの大変な仕事もひとりでやっている。感心してしまう。人が少ないのか、にこにこしながらも、コマネズミのように働いている。新しく入ってきたお年寄りで、検査に来た看護師にしつこく、くどくどと文句を言い続けている人がいた。声も乱暴で、自分の部下にでも怒鳴っているような態度だ。それでも
 落ち着いて、ていねいに相手をしていた。「意味が分からない!」とはなっから分かろうとしない相手に、懇切ていねいに説明をくりかえす。老人は、看護師の言葉はろくに聞いていないで、言葉尻をとらえてまた文句を言う。黙って寝ていた隣のベッドの人が、「あんた、文句が多すぎるよ。」と怒鳴った。老人は沈黙した。が、看護師がいなくなると、「まったくとんでもないびょぅいんに来た。」と独り言を言う。その老人も、医師に対しては低姿勢だから不思議だ。
    糖病記3

 1.耳にした会話 2003.10.20.

   若い女性患者同士
  「こんにちは。まだ生きていた?」
  「何とかね。」

2.考えること   2003.10.20.

   病気の時、人は何を考えているのだろうか。死のことを考えているのか。生のことを考えているのか。死のことだとしたら、死にたくないということか、残った日をどう生きようということか。生のことだとしたら、もっと生きたいということか、それともこれまで生きてきた日々の反省か。
 ベッドにいると、とめどもなくそんなことを考える。人とは、どんなことを考えているのだろう。入院という時間の静止したときだから、そんな考えに行きやすくなるのだろう。本当は、忙しい日頃の生活の中でも存在する問題なのだが、普段そんなことを考えている暇はない。

3.  廊下    2003.10.20.

  廊下が光っていた。
  東西に走る廊下の奥から西日が射していた。
  廊下の色が、見る見る間に
  真っ赤に染まっていった。
  赤の色相に沿って 
  次々に変化していった。

4.  びっくり  2003.10.21.

 午後の栄養指導が終わって、6階から1階に降りて一休みしていると、ドアの外から誰かのぞいていた。びっくり。まず関取さんが目に入った。そして、sallyさん、千恵ちゃん、まぢゃさん。病院まで、遠くからお見舞いに来てくれたのだった。次の主治医のM先生の講義が始まるまでの15分ほどしか時間がなかったが、懐かしい人たちに再会できてうれしかった。この15分のために甲府から出てきてくれた千恵ちゃん、いつも気遣ってくれる関取さん、今日が実際にお会いするのは初めてなのに駆けつけてくれたsallyさん、そして、ご自身も決して無理をしてはいけないのに来てくださってまぢゃさん、みなさんありがとう。
 今週から運動も療法に入ってきて、毎日一万歩を課題に、隙間の時間(主に食後)歩いています。思ったよりも元気そうだったでしょう。講義の後、主治医の先生に、退院の見込みをお聞きしてみたら、教育プログラムを終了する28日のあと1週間ほどはみてくださいとのこと。見通しがわかってきた。ネットのみなさんが来てくれて、幸運を運んでくれたかなsallyさん、お花をありがとう。まぢゃさん、手作りのうさぎさんはとってもかわいいです。名前を募集しようかな。ウサギがベッドを見下ろしています。

5.  談話から   2003.10.21.

 病院でいろいろな人に出会う。

 隣のべッドの人。60をいくつかすぎているらしい。神経質そうに見える。が、話し始めるといろいろな話題が出てきて止まらない。
「僕はいろんなことをやっているんだよ。」
 一日目は宝くじの話だった。ロト6という自分で番号を選ぶくじだ。その買い方から記入のしかた、当たりの傾向などの”研究成果”を懇切丁寧に教えてくれた。
 「今回は当たれば4億円。」
 楽しそうに話す。一度に、ん万円買わないとなかなか当たらないとか、今までに当てた総額が400万円ぐらいで、海外旅行などをそれでした話とか。親切に近くの売場を教えてくれた。二日目は、退院して野球のチームに入る話。病室にシニアのチームの人が来ていて、早速ユニフォームや帽子の話や、ピッチャーのポジションの話を相談していた。昼頃、隣のベッドから声をかけてきた。
 「さすらいさんに、おもしろい写真を見せてあげるよ。」
大事そうに包んだ紙の中から、ピストルの写真が出てきた。モデルガンを集める人の話はよく聞く。しかし、この写真はそれとは違う。すべて木を削って手作りで仕上げた銃だ。自分で部品の一つ一つから中に詰める銃弾まで、丁寧に木から削りだした逸品。本物そっくりだが、美術工芸品でもある。よほど好きで根気が良くなければここまでのものは出来ない。家族でグアム島へ行って、本物のピストルを試射してきた写真も見せてくれた。息子さんや娘さんも一緒にやっている。これには驚いた。一緒にかわいいお孫さんの写真や、人なつっこそうな猫の写真もあった。明日はどんな話が出てくるだろう。(その後、お茶をコーヒーミルで粉にしておいて、お湯を注いで飲むとおいしいことを教わり、ご馳走になった。確かにお茶の味が濃くておいしかった。)

 夜に談話室で会った人。初対面なのに親しそうに話しかけてきた。
「僕は○○を食べたよ。(血糖値が)20はあがるね。試してみたんだ。」
「僕って変わっているよね。子供の頃からそうだったんだ。今も同じ。シリカゲル(乾燥剤)って知ってるでしょう。前にね。”毒ではありません”と書いてあったから、試しになめてみたんですよ。」
「実は僕は弁護士なんだ。」
「仕事で楽しいのは、暴力団の事務所の明け渡し。僕にはストレスなんかじゃなくてカタルシスなんです。」
「踏みつけられても残っているから個性なのに、すぐに個性、個性って言う、まさに『バカの壁』ですよ。」
 会話が続いたが、こちらが話す隙がないほど口が動く。(ちなみに、「バカの壁」は、解剖学者の養老孟司さんのかかれた本の名前。賛否ははともかくおもしろいです。文庫で出ているとおもいます。話はこのあとシャーロック・ホームズとモリアティ教授の違いいきました。ご存じない方は、コナン・ドイルの「シャーロックホームズの回想」をごらんください。)この手の話しは、僕としては得意な分野なのだが、言うのに夢中で相手の話を聞くことに気づかない人なので、周りが疲れてきた。

6.  雨の一日     2003.10.22.

   雨が降っていた。朝から一日降っていた。閉じこめられたような気分の一日だった。「foot careの話と実習。栄養士の指導による糖尿食の実習。実物のカレー、ソテー、スパゲティ、オムレツなどを分解して栄養表のジャンルごとに調べていく。外食によくあるものの素材の量やカロリーを目で見て分析していく。
 それに続く薬剤師さんの講義は中身が濃かった。糖尿病の発祥の仕組みと、各薬との関係を具体的に関連づけ、各薬を一つずつ克明に解説していった。

7.  見舞い      2003.10.23.

   こんな日もある。昼頃山梨県のK校で国語を教えているA川くんからの電話。勤務の合間だろう、電話の向こうは忙しそうだった。こちらの声を聞いて、安心したと一言。生存確認だ。
「こんな時(病気)でもなければ声を聞けないからな。」
と安心した声で。これが見舞いの第1号。
 夕方談話室から6Fに戻ると、エレベーターの前で、母・妹二人とばったり。流山から見舞いに来たのだ。いれ違いで少し待たせてしまった。一緒に部屋に戻った。3人に一つの椅子しかなかったので、母だけ座らせようとしたら、同室の方たちが、どうぞどうぞと椅子を持ってきてくれた。この病室の雰囲気はお互いに優しいというのが母に伝わって安心しただろうか。話を始めたら、今日3つ目のお見舞い。勤務先の同僚の若いW先生がやってきた。
  ナースステーションの前で、学校のことなどをしばらく話しているうちに長くなってしまい、母たちを待たせてしまった。夕方の雷の後、母たちは帰っていった。下の妹の持ってきてくれたフィギアが残った。
 ところで、前に書いたが、入院してきて看護師さんにしつこく文句を言っていたおじいさん。初日以後誰も見舞い客が来ない様子。カーテンを閉め切ってめったに顔を見せない。寂しくないかと気になり、今朝廊下で見かけたとき思い切って話しかけてみた。にこっと笑ってしばらく話をしてしてくれた。何となく安心して、少し気持ちが明るくなった。その後も、廊下ですれ違うたびににこっとして会釈していく。
 もう一つ心に掛かるのは、同じ並びのナースステーション近くの個室。いつもドアが開いている。廊下に人の気配がするたびに声をかける。どうやらおばあさんらしい。
「誰かいないですか。」
「看護婦さーん。」
必ず声をかける。たまたま通ったとき、家族らしい人が来ていたけど、おばあさんを激しく叱っていた。そのためか、次の日はその部屋はしーんとしていた。

8.    漂う船からの一言    2003.10.23.

   「個体は遺伝子の乗る船」というような意味の文を読んだことがある。個体は、”永遠”に生き続ける遺伝子という主役の乗り物にすぎないという考え方だ。本当にそうなのかは知らない。が、”私”のような個体が、”今”だけを見て生きているとしたら、その個体は、付近だけを見ながら漂っているを見ている船にすぎないという気もしてくる。それは、動物のように、その日の食べ物を見、敵の姿を見、”今”の現実の中だけにいて未来に向かう時間軸のない(動物に聞いて確かめてはいないが)生活のことだ。入院という特殊な状況で、次の食事のことがまず気になるという生活をしていると、妙なことを考えてしまう。人も、飾りをはずしたら、似たようなものではないかという漠然とした疑い。生活をし、仕事をし、とにかく生きている。けれど、夢を持つにしろ目標を持つにしろ抱負を持つにしろ好奇心を持つにしろ、先に対する関心・未来に対する時間軸を持つことを失ってしまったら、”漂う船”=乗り物に成り下がってしまうとまあそんなことを考えてしまう。だからどうなんだと言われたらそれまでだが・・・・・・・

 糖病記4  

2003.10.28.

 糖尿病の2週間の教育プログラムがおわった。医師、薬剤師、栄養士、看護師と一緒の終了式。修了証が渡された。病棟のM部長が自分で書いたという話。立場がいつもと変わるというのは、妙な気分。講義をする方より受ける方がたのしいのは確か。学ぶというの面白い。病気への理解という以前に、知りたがり根性が出てきてついつい質問をしてしまう。病院はよくやってくれたと思う。
 退院はまだだ。

 談話室やベンチなどで見知らぬ患者同士が知り合いになる。お互いの名前を知らないままに会釈をするようになる、退院の日まで。
 となりの病室は女性の部屋。ひとり銘柄はわからなかったが、しゃれたたばこを持っている方がいた。外のベンチでたばこのない女性に、気さくに自分のたばこを分けていた。藤田さんという方だった。今日その女性が退院された。昼頃夫が迎えに来た。背が高く細身のスマートな方で、衣服も雰囲気もきちんとしていて品があった。横を通り過ぎながら、誰かすぐわかった。プロ野球の巨人軍の元監督の藤田元司(字が正しいかわからない。)さんだった。他の人の話では、よくお見舞いに来ていたとのこと。有名人ながら、個室でなく6人部屋なのが奥ゆかしく感じられた。

 同じ部屋から二人退院した。Iさんは、僕より前にいた人。体が大きくて声も大きいが、気のいい人。朗々とした声でほがらかに話しかけてくる。僕より上の世代だが、気さくで話題も豊富。この世代の人は、ぼくと共通の時代を生きてきたので、昔の話もつながりやすいのが助かる。新しいこともけっこう知っていてパソコンやインターネットの話も詳しい。自分と近い世代だなと感じるのは、食事の時。ふたりとも特にがんばっているわけでもないが、とにかく食べるのがはやい。食べ終えて最初に箸を洗うのは二人のどちらかだ。毎朝必ず朝日新聞を買ってくる。そして、自分が読み終わると「はいよ。」とこちらに新聞をまわしてくれる。僕もわざと違う新聞を買ってきて、読んでからまわす。あとで新聞の内容や質についてよく、一緒に論じた。こんな会話は楽しい。
 もう一人退院したHさんは、前回書いたので省く。
 部屋の最年少が、39歳の若々しいNさん。自分でラーメン店を経営している。小田急沿線で二つの店を切り盛りしている。若いが腰が低く、相手をたてて話をする。また、よく気がつく人で、椅子の人にさっと手を貸したりする。ラーメン店の店主で入院だから気がもめることも多いのだろう。ときどき外出して店を見に行っている。自分しか作れないというみそラーメンのみそを調合?するためにも店に出かけていく。この人も朗らかで明るい。入院中に、テレビの番組で、このMさんの店の「ネギみそラーメン」が紹介されたことがあった。同じ部屋の仲間が食堂に集まって一緒にテレビを囲んだ。そして、Nさんが写ったとたんに歓声を上げた。この「けんちゃんラーメン」のマスターも、明日退院していってしまう。インシュリンから飲み薬に変わったそうで良かったと思う。
 先週退院したKさんも楽しい人だった。よくベッドで寝ていた。細い人で傍らに松葉杖を置いていた。耳が遠いらしく、病院の呼び出しが聞こえないかと心配して、周りで大声で「Kーさん。」と呼ぶことがよくあった。いつもにこにこしていた。看護士さんや医師のいる病院内では、松葉杖でおっとりと歩いていたが、ひとたび病院の外に出ると、松葉杖は持ち上げて、すたすたと早足で歩いていた。僕とHさんで歩いていたときに、うしろから歩いてきたKさんに追い越されて唖然としたことがあった。にこっと笑って通り過ぎていったものであった。
 入院したばかりの時隣にいたSさんも、声が大きくて陽気で、すばぬけて明るい方だった。お元気でしょっちゅう病院近くの公園にジョギングに行っていた。、世話好きな方で、病室内の人によく話しかけ、「**さん、そろそろ血糖値をはかる時間だよ。」と声をかけていた。部屋で一番若々しい感じで、見た目も年がわからなかったが、聞けば70代とか。
 僕の入ったのは、もしかしたら、病院で一番あかるい病室だったのかもしれない。笑い声の絶えない病室。これで、私はどれだけ救われたかわからないと、今思う。
 その後半数が入れ替わり、部屋の雰囲気は静かなものになった。

 夕方、ふと顔を上げたら、S先生の顔があった。僕の病欠の間、代わりにクラスを見てくれている嘱託の先生だ。僕宛にクラスの子どもたちの書いた手紙を綴じたものだ。S先生はこういうことに気が回る。恐らくS先生が指導されたものだ。ありがたいことだ。僕は、どこの病院に入院しているということを保護者にも子どもにも言っていない。校長から家庭に配布された手紙には「検査入院して、その間をS先生がみます。」としか書いてない。子どもも保護者も、僕がどこにいるは知らない。S先生が、伝書鳩の役をやってくださったわけだ。子どもたちの手紙は、暖かいものだった。実は、僕の方からは、1週間に1度、クラスの子ども宛に「阿弥陀堂だより」ならぬ「病院だより」出している。今日で4枚目になった。子どもたちの手紙の中に、それにたいする返事があった。入院中もささやかながら子どもたちとつながっている。そして、仕事のおみやげも一緒に来た。

2003.10.29.

 すばらしい天気だった。暖かだった。1日降り続いた昨日の雨が嘘のようだ。同室の若いNさんが午前中退院していった。インシュリンではなくて薬を飲めばよいということで、晴れ晴れとした顔で部屋を出ていった。小田急線、千歳船橋駅の「けんちゃんラーメン」にいつか行ってみよう、カロリー制限の壁を気にしながら。。元気に仕事をしているNさんにあえることだろう。

 玄関横の談話室の中で誰かが言った。「あれ、小川知子だろう。」ほかの誰かが、違うだろうと言うと、病院のヘルパーにボランティアで高尾から来ている元気者のおばさんが確認してくれた。後ろ姿しか見えなかったが、真っ赤な服で車椅子についていた。「お母さんの付き添いだろう。」とまた誰かが言った。ヘルパーさんが、「ほかにもタレントさんがふたり来ていたよ。救急用の出入り口をつかって。」どうやらこの付近には、いろんな人が住んでいるとみえる。夕方には、前任校で5年ほど一緒だった音楽の先生にも会った。

 夕食前、いきなり子どもがのぞき込んだ。去年教えた2年生の男の子だった。子どものお見舞いは禁止されていることもあり、病院名までは、どの子にも教えていない。が、このK君は、偶然にこの病院に喘息で通院中だった。お祖母さんと一緒に来た帰りによったらしい。背が伸びていた。ちょっとはにかみながらにこにこしていた。お祖父さんが糖尿病で自宅療養中だそうで、お婆ちゃんは糖尿病のことをよく知っていた。以前同じ病院に入院していたそうで、食品交換表についても詳しかった。足に低温やけどをして、10ヶ月たっても治らないという。糖尿性神経症の例を思わぬところで聞いてしまった。痛さなどに鈍感になり、感染にも弱く、治りにくいという話を思い出した。K君のお祖父さんのやけどが、はやく快復しますように。エレベーターのところで、K君は名残惜しそうに手を振っていった。

 インシュリンを朝夕の2回にして二日目。今日は、血糖値がエレベーターのように上下する。夜中の3時まで血糖値の測定がある。

2003.10.30.

 夜に主治医が訪れ金曜日の退院が決まった。私の方は、たくさん質問をしてしまった。たくさんあった検査のひとつひとつの説明をしてもらった。結果だけでなく、検査の意味なども。どうしても知りたがりの虫が出てきてしまう。自分の病気だからというだけでなく、学問的な興味というのが出てきてしまう。最新の科学知識に対する好奇心と同質なものだ。

2003.10.31.

 退院。今まで談話室でよく話をしていた患者のSさんと、いつか一緒に食事(糖尿食)でもという
話になる。はじめて、自分の病室や住所などを明かしてくれた。実は、入院している病院の検査技師だとか。ちょっとびっくり。
 支払いの後、昼食をとってから荷物を持ってもどる。荷物の整理をしたあと、病院からの紹
介状を持って、F腎クリニックへ。専門の医師が週1回火曜日の午前しか来ないそうで、頼み込んで翌日の午前中の最訪を約して血糖値測定器だけ借りる。そのあと、すぐに必要な食材の計量用の秤や万歩計などをさがす。
 何となく退院して復帰する気分がしない。目の前にインシュリンの注射器や血糖値測定器が置いてあるせいだろうか。退院は全快ではなくて、これから始まる自宅治療、病気とのつき合いの出発と考えた方が良いという患者の言葉を思い出していた。

どちらが本当か

2004.7.23.

 家族と一緒に部屋の中にいた。ビデオの操作をして見せた。1週間先の番組を出して見られることを示して、簡単だからやってみたらと父に言ったが、新しいことを覚えるのは面倒だと言って手を出さなかった。
 それから家族で列車に乗ってでかけたが、途中で用事のある私は3時間後に合流することにしていったん下車した。中央線のどこかの駅だった。
 走り去る列車をバスのように見送って駅を出たら、そこがどこかわからなかった。いままで見たことのない場所だった。壁に大きな路線図がかかっていたが、線路は北関東のどこかを東西に走っていて、両端がとぎれていた。急いで用事を済ませるために別の電車に乗ろうと思ったが、一つとして知っている駅名が無く、線路はどこにもつながっていないようだった。町並みもあるような無いような・・・・途方に暮れてしまった。3時間で合流できるだろうか。
 そこでぱっと目が覚めた。覚める前の方がリアルで現実感があった。目が覚めたあとが夢のような感じだった。周りがすべて透き通って嘘のように見えた。今しゃべっていた父がくっきりとしていた。
 うたたねをしてしまったらしい。それにしても、この夢と現実の逆の感覚はなんだ。1週間前に父の墓参りをした。どうやら父が会いに来たらしい。急いで、もう一度うたた寝をしなければ。約束の3時間が過ぎてしまう・・・・・・・・