弟子に説法      2004.8.1.日曜日
 「釈迦に説法」という言葉がある。むしろ、「弟子に説法」という言葉があってもいいような気がする。どんな立派な言葉も、美しい理念も、受け取る側の中に準備が無ければ素通りしてしまうだろう。準備とは、それなりの経験や時間や年齢などである。「経験や時間や年齢」に「立派な言葉や美しい理念」が響いたとき、それは、観念を越えた大きな境地につながる。経験を知らない理念は上滑りしやすい。また、理念をもたない経験は繰り言や独善に陥りやすい。
 弟子に説法をするにも悟りには時期があるだろうと言いたいのである。ただしである。弟子がわからないなりに、説法を記憶の引き出しにとどめることの出来る者であれば、経験を重ねていく中で、いつの日かその二つがつながることだろう。「心の修行」とは、その日のための準備である。しかしまた、日々学ぶものを受け止めることをせずに通過させているだけの者は、経験は単なる時間の蓄積と、その中で沈潜していく澱にすぎないということにもなろう。
 自分の場合さてどちらだろうと、年齢を重ねてしまったこの頃思うのである。

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