映画の棚

制作 さすらい人 2001〜
エル・スール
1983年スペイン    監督      ビクトル・エリセ
 95分          主なキャスト  オメロ・アントヌッティ   ソンソレス・アラングーレン   
                        イシアル・ボリャイン   オーロール・クレマン  他
      
1983年シカゴ国際映画祭
ゴールド・ヒューゴー賞受賞
     映画に出てくる音楽

ラベル       弦楽四重奏曲ヘ長調第3楽章
シューベルト   弦楽五重奏曲ハ長調第2楽章
グラナドス    スペイン舞曲集から
           第2番「オリエンタル」
           第5番「アンダルシア」
           「エン・エル・ムンド」など
アンダルシアの語源 

 昔歴史で習った西ローマ帝国の滅亡後のあたりで、ヴァンダル族というのが登場した。そのヴァンダル族に由来する「ヴァンダルシア」から「アンダルシア」になったということらしいが、本当なのかな。
            DVD         TCD 1008   東北新社
            レーザーディスク  00LS 80017 SONY
 「ミツバチのささやき」に続くエリセの長編第2作。前作から約10年たっている。
この間にスペインのフランコ独裁政権の時代は去った。前作撮影時と環境がかわ
ったのは、スペイン内戦の影が、沈黙する大人達という形での表現だけではなく、
遠回しながらも登場人物(ミラグロス)のセリフで語られるということからも窺われ
る。どちらの物語も、登場人物〈大人達〉がスペイン戦争をしょって生きているが、
エリセは直接は何も語らない。押しつけない。見る人の想像力に任されている。
二つの映画に登場する子どもたちの目も、何も知らないまま未来に向いている。
 これだけ映像の美しい映画も珍しい。まずそのいくつかを紹介しよう。ゆるんだカットというのがないといっていい。
物語
帰宅しない父をさがす声で
エストレリャは目を覚ます。
昔父が愛用していたふりこ
がそっと枕元に置いてある
のを見て、父は二度と戻ら
ないと感じる。ここから話は
回想に入っていく。
エストレリャの一家は、父と母と
使用人?の4人暮らし。北の地
に住む。病院勤務の父は、優しく
振り子を使って地下の水を探し当
てる不思議な力を持っている。エ
ストレリャはそんな父を信頼しきっ
ている。
何故か父親は、南の地に足
を向けようとしない。暖か
い南の地の絵はがきを見な
がら想いをはせる。エル・
スールとは、南という意味。
ある日、その南の地から、
エストレリャの聖体拝受の
お祝いのために祖母がやっ
てくる。一緒にやって来た
ミラグロスから、寝物語で、
昔父と祖父がいがみ合った
ことを聞かされる。
はじめ父が正義で、祖父が悪者、後でそれが逆転したと
いう話は、スペイン内戦で、父は共和国側、祖父は右翼
の反乱者フランコ側を支持したということだろう。結局
スペイン内戦は、ナチスとも提携したフランコ側が勝ち、
独裁政権をうち立てる。余談だが、このときフランコを
支持したナチスがゲルニカを爆撃して大きな被害を与え
たという話を聞いたピカソの怒りが大作「ゲルニカ」を
生み出す。敗れた共和国側を支持した父は、南の地を出
奔して北の地で暮らしていたのだ。教会で行われる政体
拝受式。その朝、遠くの山で鉄砲を撃つ父。頃まで決し
て教会へ足を向けようとしなかった父を知っているまわ
りは、式に父親が来るかを心配する。このあたりも、フ
ランコ総統の強力な支持基盤が、富者であるカトリック
教会だったことを知っていると納得できる。エストレリャ
の聖体拝受のために、そっと教会の柱のかげにたってい
た父を見たエストレリャは、自分のために来てくれたと
思う。もどった後の父と娘の踊りの音楽は「エン・エル・
ムンド」この曲は、映画の後の方で再び出てくる。
 南の香を運んできた祖母たちが帰った後のある日、エストレリャは今まで知らなかった父を発見する。紙に
一人の女性の名前がたくさん書かれていたのだ。母の知らない名前だった。その謎はまもなく解けるという
か深まることになる。町の映画館の前で父のオートバイが止めてあるのを見つけて近寄った映画館の出演
者の中にその女性の名前を見つけたのだ。チラシをもらったエストレリャは、外で待っている。やがて映画館
から出てきた父は、カフェに入って手紙を書き始める。そっと窓に近寄ってエストレリャが窓をたたくと、振り返
った父は気まずそうな顔をして手をあげる・・・・。父がカフェで一人手紙を読む場面く。ここにいたって、映画に
出ていた女性が、かって南の地で父の恋人?であったこと、カフェで書いた手紙の返事が来たことがわかる。
返事の文面から、かっての二人のことが分かる。返事のなかで、「もう、待つのに疲れました。」「過去を見な
いで未来を見ることにしました。」という意味の言葉が出てくる。スペイン内戦で引き裂かれた事情がほのめ
              かされる。かって二人が同志であったようにもとれる。また、共和制が
              右翼フランコに 倒され、独裁政権下にある現在と重ね合わせることで、
              前述の女性の言葉の意味合いが複雑になる。北から南に行こうとしな
              い父の立場も。勿論これらは勝手な想像である。エリセは、説明をしな
              い。すべては受け手に委ねられている。直接語られないが、ちょっとした
              シーンや映像がたくさんのことを言っているようでもある。返事を読む父
              の横で、調律師が狂った音のピアノを鳴らしている。耳障りな不協和音
              が父親の姿に重なる。まるで父の内面を表現しているように聞こえる。
              そういえば、聖体拝受式に教会に行く朝の鉄砲の音も同様。エリセの
              映画は、細かいところまで計算され緻密に構築されているように見える。

                        
 ある日父は初めて家に戻らない。駅の近くの宿に泊まり、翌朝南の地に
向かう列車を待つ。しかし、寝過ごして〈あるいは決断がつかなかったのか〉
結局列車には乗らず、そっと家に戻ってくる。この場面も、窓の外の明るさと
列車の音だけで全てが表現される。家の中は重たい空気に沈み。夜、窓の
下でブランコに乗りながら父親の部屋を見上げるエストレリャ。窓からちらっ
と見せる父の表情はわからない。映画のはじめの父娘の親密さと違った目
に見えない溝。もう、例の振り子を持ってエストレリャと出かける事もない父。
ある日エストレリャは、家によどむ暗い空気に反抗して、
ベッドの下に隠れてしまう。母や奉公人がさがしまわっ
ている声が聞こえても隠れ続ける。そのうち父が来てく
れたらとび出すつもりだったのかもしれない。しかし、家
にいないのか父はやって来ない。長い時間が過ぎる。
エストレリャの耳に、こつこつという音が聞こえてくる。
最上階(屋根裏部屋)から響く音。父が、杖で床をたた
く単調なリズム。この音も、孤独の淵に沈む父の心の
表現。その音を聴いているうちに泣きじゃくり出すエスト
レリャ。
エストレリャは、早く大きくなって家を出たいと思うように
なる。自転車に乗って出ていくシーンで子役エストレリャ
とお別れとなる。
右のふたつの画面。左は、自転車に乗ったエ
ストレリャが並木の向こうに向かって去ってい
き、まだ若い犬があとを追いかけていく。そして、
映画はすぐに向こうから戻ってくるエストレリャ
に続く。(右の画面)よく見ると景色が変わって
いる。近づいてきたエストレリャは大きく成長し
ている。犬も大きい。連続するたったふたつの
画面で時間の経過を表している。鮮やかな手
法だと思う。
 エストレリャが成長する間に何が            あったかなかったか。直接語られる
ことはない。成長したエストレリャ             には、「愛してる」と塀に落書きして
いくようなボーイフレンドもいるらし             い。(らしい、というのは、電話の声
でしか登場しないから。)学校へ通っている。夕暮れの町をふらふらするのが好きな女の子、写真
屋に飾ってある自分の写真を見てにんまりする女の子である。ある夜、まちで店から出てきたわび
しげな父を見かけたときも、さっと隠れてしまう。エストレリャが見ていることを知らない父は、写真屋
に飾られたた娘の写真をしばらくまじまじとみつめてから去っていく。無言のエストレリャ。しかし、映
画館で昔見た父の恋人らしい女優の名前はその後見かけなかったと言っているところから、心の中
で忘れていないことも示している。ここの父親とのすれ違いと、幼い日の父親の姿を比べてみるのも
面白い。父親が等身大になり生身の人間になっていくこととエストレリャの成長していくことが平行し
ている。この映画の本当らしさは、父親を、娘というフィルターを通して見つめたところにもあると思う。
ある日めずらしく学校にきた父から、昼食に誘われる。父と娘の、最後の会話である。さりげないが
気になる会話も出てくる。エストレリャのボーイフレンドに話が及び、壁の落書きのことを非難めかし
て言う娘に父の言うセリフ「言いたいことが何でも言えるのは素晴らしいことさ。」でどきっとする。想
いを言えない自分の気持ちの表明に聞こえるが、当時のフランコ独裁体制への皮肉にも取れるから
だ。10年ほど前のエリセの作品「ミツバチのささやき」に出てくる大人達が、ほとんど考えらしい考え
を言わない無気力感の漂う人たちだったことを連想してしまう。あの映画の作られた時期はこの映
画より早く、スペインが自由化以前であったこと、描かれた時代がこの作品より少し前ということもあ
るかもしれない。が、無気力の描写は、当時の体制に対する雄弁な意志表示なのかもしれない。
父娘の会話は何となくぎこちない。エストレリャは、父が何故急に食事に
誘ったのかがわからない。父親は話しながら、エストレリャの小さかった
頃のことも思い出している。父親の「何でも聞いてごらん。」の言葉に、エ
ストレリャは、長い間胸の中にあった父の恋人らしい女優の名前を出す。
びっくりし、曖昧な返事をしたまま洗面所にたつ父親。気持ちの整理に時
間が必要だったように見える。戻ってきた父親に娘は 、午後の講義があ
るのでと立ち上がろうとする。「さぼれないか。」となおも娘との時間を持と
うとする父。その時、食事をしていたホテルの中の結婚式の会場から音楽
が聞こえてきて、遠くを見るような眼差しで父は耳を傾ける。エストレリャ
が小さいとき一緒に踊った「エン・エル・ムンド」瞬間二人の思いが幼い日
に戻るが、すぐに振り切るようにしてエストレリャは立ち上がる。部屋の隅
の席で手をあげる父の姿がひどく寂しげに見える。父の座る位置の設定が
孤独感を感じさせる。ここにも冷静な構図の計算がある。エストレリャ側か
ら撮ったカメラアングルは、遠くに小さく見える父が、小さく、ぽつんとして見
える。このあと、川の見える美しい景色にかわり、カメラがパンしていくと、
その川縁に銃を抱えて横たわる父の姿がさりげなくうつる。自殺した父。そ
して映画は、冒頭の、父の死を予感したエストレリャ、枕元に置かれた振り
子を手に取り涙を浮かべるエストレリャに戻る。
エストレリャは、父の遺品の中から、前の晩に見知らぬ所にかけられた長
距離電話の札を見つけ、こっそりしまっておく。体調を崩して寝込んだエスト
レリャに、南の地から、ミラグロスのさそいがあったのを機に、生まれて初め
て南に旅立とうとするところで映画は終わっている。ちなみにミラグロスとい
うのは、「奇跡」という意味。
雑 談
この映画は「南」というタイトルなのにただの一度も南の地は出てこない。
本来の脚本では、エストレリャが南の地に行って意外な出会いをすること
になっていた、と何かの本で読んだことがある。この映画が公開された頃、
エリセ監督は「エル・ノルテ(北)」という続編を作るというまことしやかな噂
も流れたが残念ながら実現しなかった。もし、南の地の物語があったなら、
映画の感じは大分変わったのではないかと思う。ここで語られなかった謎
が語られたのかどうか。残念ながら、製作が長引いて、予算が続かなくな
り、撮影が途中でうち切られたと聞いている。本当に残念である。

見逃してしまいそうなちょっとしたところに意味がありそうな画面がいくつもある。右の3枚の写真の左から
一枚目、最後の出てくるカットだ。きれたブランコのひも。幼いエストレリャが、おそらく父親の手作りだろう
ブランコに乗っている場面が度々出てきた。病院から帰ってきた父を待ちかねたように飛び出して行って、
オートバイの後ろに乗せるようにせがんだ最初の方の場面。その時このブランコに乗っていた。悩む父を窓
の下から不安そうに見上げる場面でも乗っていたブランコ。それが、父の死の後では、朽ちて残骸になって
いる。象徴的である。真ん中の写真。左に沈む夕日のような赤っぽい色がある。右の方からパンしてくると
きこの色はない。この朱が見えたとき、下に死んだ父が横たわっているのである。3枚目の写真。風見の
鳥が南を向いている。南を拒否しながら南の人に心を寄せる父、あるいは、まだ見ぬ南の地に思いをはせ
るエストレリャ。この撮りも象徴的である。

 思わず長々と書いてしまった。私がこれほど心を打たれた映画も珍しいということでお許し頂ければと思う。
はじめの方で紹介したように、今はDVDでみることが出来る。「ミツバチのささやき」とセットになったDVDもあ
るそうなので、機会があったらぜひ見て頂けたらと思う。なお、スペイン内戦についての本は多数出ているの
で、背景を知るのに何か読んでおくことも役に立つが、読んでなくても大丈夫です。

ビクトル・エリセのページ紹介
 
 エリセさんのホームページ「銀盤生活」の中の「Victor Erice’s Room」

エル・スールその後   2009.4.7.追記       
  エリセ監督は、北と南の物語を描は、対比させる構想でこの作品に取り組んだという。ところが北の部分を撮影したところでプロデューサー
からストップがかかり、結局南の部分の撮影の中止に追い込まれた。台本にして252ページ分が未撮影で、エリセ監督自身は、この作品を
「不完全な作品」といっている。と言っている。完成すれば2時間を超える大作になったかも知れないという。北の部分のみを編集するしかなかったために、現在のように、[エル・スール」(南)と言うタイトルなのに南は登場しない作品となった。完成していれば、昔の恋人オーロール・クレマンやその息子(エストレリャの異母弟)、クレマンの弟など新たな登場人物と意外な展開があり、キャストも決まっていたそうだ。南の物語撮影の準備に写した写真が多数残っており、ビクトル・エリセDVDボックス(旧)の中のボーナスディスクに収録されている。エストレリャが、父の新しい側面を発見していき、成長していく物語になったはずなのである。

「エル・スール」の原作本   2009.4.7.追記     
 
 2009年の2月に映画の原作であるアデライーダ・ガルシア・モラレスの「エル・スール」翻訳本がインスクリプトという会社から出版された。ここには後半の物語も入っている。映画とは微妙に味わいが違うが、[エル・スール]ファンには必読書になりそうである。


「エル・スール」の参考本   2009.4.7.追記     


 E/MブックスG 「ビクトル・エリセ」    エスクァィア マガジン ジャパン 2000年3月発行